2021-10-17 無花果の枝払い
日照時間が短かったせいか、それとも的確な時期に枝はらいをしなかったせいか、今年の無花果はみのりが遅い。 10月2日に1年ごしの引越し報告会をしたが、その時期に設定したのは来客に無花果を振る舞おうという狙いもあった。それなのにひとつも食べられる実がなくてがっかりしたのだった。
紅葉と落葉がはじまっても青く締まった実がいつまでも熟さない。このままにしても変化はないかもしれないと思い、枝をばっさりとすいた。
『動いている庭』は私が想像していたよりもうんと、その哲学によって作られた庭の解説や植物の特質の紹介に割かれている。わたしはどちらかといえば、その哲学を庭に接する目線で物語るものを読みたかったかもしれない。もっと日々の体験に落とし込んだようなもの…とかかな? でもがっかりしたということはもちろんなくて、もう著者はすでに発見者とか体験者ではなくて、観察者であるのだった。
その観察者がどんな風に庭を導いたりまたは放置したり、思い切った方法でがらりと変化させたりまたは、そう来るならそれでもまあいいよと受け入れたりするのか、を興味深く読んでいる。この方法を自分の庭を見る目線に引き入れることができることにもわくわく。
そういうわけで今日は庭に手を入れる日にしたのだった。
人が通る道や育てているハーブの周りだけ雑草を刈ったり、中国の牡丹の枝のひとふさが完全に枯れていたのを取り除く。ムラサキシキブとヤマボウシも影になりそうなところに伸びている枝を落としておく。
夏のあいだに日陰でひゅうっと高く伸びた良い香りの花がかさかさと枯れて種をいっぱいつけていて、その種が実の受け皿からこぼれ落ちずにずっと今日まであった。風の強い日も激しい雨の日もあったのに。こうして長いこと種が落ちないということにもきっとこの植物が生存するための意味があるんだろう。
乾いた茎を振ってもやはり簡単にはこぼれてくれず、ぽきんと折って種をもらい、雑草をつみとって土がちになった場所に撒いてみた。運が良ければ育つだろう。
それから竹を何本か切り、トマトの支えを作った。苗で頂いてきて植えてから自由にさせていたら、くねくねと地を張って雑草と混じり合いローズマリーやタイムの領域を侵食し始めたので立てたのだが、思ったよりも背丈が伸びていたし、蛇行した茎を起立させるのは骨だった。
トマトの葉は強いトマトのかおりがする。
無花果の葉もそうだ。
お茶として飲めるらしいので摘み取っておいておく。うまく乾いてくれるかな。
取り払った枝はほとんど私の身長ほどの山になった。竹もそうだけれど、どんどん出てきて、刈り取っても刈り取っても土になる速度をはるかに凌駕して増える。このままでは庭が丘になってしまう。
この庭の土の養分を利用して伸びたのに、土に還ったところでかさがうんと増えているというのはなにごとだ。エネルギー保存の法則とは。
あ、でも太陽エネルギーが加わっているんだ。
太陽はすごいな。
無花果の葉には肌をかぶれさせる作用があるので、腕がかゆい。
こういう時にはキップパイロールが効く。
キップパイロールって、ドイツ以北(デンマークとか)の薬だとなぜだか思っていたけれど日本製だった。
去年の無花果に関する日記を読んでみたら、10月の末まではまだ収穫をしていたようなので、ちょっとほっとした。